藻屑と消える

藻屑 私 も くず

救われたい

自分は、かなり恵まれている人間だなあと思う。
(ごく普通、というか理想とされる形からは外れているけど)きちんと愛してくれる両親がいて、その収入も多い方で、広いおうちがあって、教育には惜しみなくお金を使ってくれて、地元から離れた学校に通うことも許してくれて、仕送りもくれて、わたしの考えと気持ちを尊重してくれる。数は少ないけれど深く付き合える友人がいる、愛してくれる恋人がいる。環境にも人間にもほんとうに恵まれている、といつも思う。

それなのに、生きてるのがつらくてつらくてたまらない。生きているのが申し訳ない。生きてる価値がない。どうして生きてるの?死ぬべき。
わたしを愛してくれたり必要としてくれたりする人がいることは分かってる。生きることに決まった意味なんてなくて自分で適当に決めるしかないことも分かってる。みんなみんなつらい思いをしていてつらさはそれぞれで、他人になんて理解できっこないことも。世の中には(最大公約数の他者のために)死んだ方がいい人間というのがいて、自分は特にそういう人種ではないということも。
いろーんな理屈を一応理解してる上で、やっぱり自分は死んだ方がいいのにな、と思う。

わたしが死ぬことでいろんな人にある程度の大きさの悲しみが発生する。でも、悲しみは必ず時間が経てば薄れて、みんな自分の生活に戻らざるを得なくなるもの。
それよりも、わたしが生きて彼らと関わる上で発生する負担とか、悩みとか、迷惑とかは、当然わたしが生き続ける限り発生し続ける。
わたしはそういう負の産物があり続ける状況が嫌なんです。

というふうに、理屈っぽい説明もあるにはあるけど、やっぱりただひたすらに自己肯定感が低い、限りなくゼロに近いっていうのが原因なんだろうな。

大学辞めたいな、とぽろっと零したとき、あんたは自分に自信が足りないと思うの、だからつらくても頑張って大学を出て、自分はつらい思いをしたけどやりきったぞ、って気持ちをつけた方がいいと思うのね、と祖母が言ったことがある。
それは確かだなあと思っていて、いま大学を辞めたら自己肯定感を得る機会なんてきっともうなくて、むしろ固い学歴コンプを身につけてしまうんだろうね。
だけど学校に通える気なんてしなくて、たぶん大学を替えたところで解決するようなものでもなく、フリーターでいいからわたしは働きたいけど親はそうはいかず、負担が増えても大学は卒業させてあげたいのだと言い張り、もちろんそれはありがたいことでそれに甘えた方がよいのだろうけど、親の負担になっているという気持ちがさらにわたしの負担になり、ぐるぐる…

そして結局、一刻もはやく死ぬべきだ、という結論に至る。それは自己肯定感の低さの結実であり、思考の放棄であり、甘えである。

救われたい。